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ピアジェのグラス
珍しく研究の手を止め物思いに耽っていた彼は
研究室へやってきた珍しい客人に顔には出さずに驚いた。
彼、ビクトルが研究を行っている部屋にはトランスポーターがあるため
それなりに人が出入りを繰り返しているが、
トランスポーターを利用するお決まりの人はビクトルの研究風景に既に慣れてしまっているため
例え彼が研究中でも、研究失敗で髪型が質量を無視したアフロになっていようと、
研究成功でハイテンションで笑っていようと気にせずにトランスポーターへ向かい光となって消える。
今、彼の前にいる客人もトランスポーターを使った事はあるが、
その際は一言二言挨拶をするだけですぐに通行人として目的地へと消える。
しかし今日に限って客人はわざわざ彼の研究机の前にまで来て、
そのくせ話しかける事は躊躇ったのか、赤毛と身体を左右に揺らしてばつの悪そうにしていた。
「……なんじゃ、アネット」
かつて、結果として『世界』を救う
――ビクトルにとっては罪滅ぼしの――旅を共にした少女。
ビクトルが研究室を構える、ここヴォルトーンでキシロニア連邦の議長の娘、
アネットは名前を呼ばれて今度は助けて欲しそうな目でビクトルを見つめた。
このままほったらかして、捨てられた子犬のような顔を見続けるのも
暇つぶしにはいいかもしれないと彼は一瞬だけ思ったが、
もしかしたら、この少女の年齢ほどじゃないにしても
こういう孫が自分にいてもおかしくないな、という
変な想像をしてしまい妙な祖父心が湧いた。
「なにか用事があって来たんじゃろ。座れ。
お主の家にあるような立派なイスはないが、文句は言わんでくれよ」
自分の近くにあるイス、それは適当に本を積み重ねた棚の代わりとなっていたが
それらの本を机へと移動させ少女に座るように促す。
机の向こうにいた少女は「ありがと」と小さく呟き、促された彼の隣のイスに座った。
流石議長の娘だけあり、上質な絹で仕立てられた少女の紅のドレスと純白の短いペチコートは
優美さよりも機能性を重視しているためか黒いストッキングに包まれた両脚をより美しく見せる。
そんな事を知ってか知らずか、少女は無防備に促されたイスに座ると
思いの他両者の距離が近くなったため、彼は内心しまったと思ったが、
それは男性特有の欲からくるものではなく
彼が持つ研究者特有のパーソナルエリアの広さからくるもので
少女にばれないようにこっそりと座っていたイスを引いて距離を取る。
少女の方は、元々人見知りをしない性格も手伝ってかパーソナルエリアは狭く
ビクトルと距離が近かった事も、今ビクトルがイスを引いて距離を取った事も分かっていないようだった。
「で、なんの用じゃ」
「……相談、かなぁ」
「何か作ってほしいものでもあるのか」
「そうじゃなくて……人生相談というか、悩み相談と言うか」
「……ワシにか?グレイや親父さんではなくて」
彼は見た目年齢が実年齢より上に見えるが、誰かにこういった頼られ方をされるタイプではない。
妻と子供を亡くしてからは特に研究一筋だったために、研究に関して質問や相談をされる事はあったが
こういった人間的・心理的相談をされる事は数十年ぶりだった。
そう言えば、今日の朝には同じく旅のメンバーだった弥生もここへ来て
珍しく長閑な笑みではなく、眉間にシワを寄せるでもなく、
無に近い表情でトランスポーターに消えたなと彼は思い出し
貴重な体験は一気にやってくるものなのだなと勝手に納得した。
「昨日の夜、弥生さんが遊びに来てくれて、家に泊まってくれたの。
家にメイドとかはいるけど、気兼ねなく話せる女友達とか少ないから一緒に寝て、色々話して……
今日の朝、弥生さんが帰る前に、少し疑問に思っていたことを聞いたの。
どうして今回の事件に限って精霊使いが動いたのって。
確かに太陽の力が弱くなったら人が生きていけなくなるから重大な事件だったってのは分かってる。
でも、王都の王位継承でのゴタゴタや国同士の戦争自体も人が死んでるのに、
そういった事柄で精霊使いが大々的に動いてないのどうして?って」
そこで少女は一息付いた。
喉が疲れたのか、一度話す内容を整理する為か、ゆっくりと唾を飲み込んだ姿を見て
何か飲み物でも与えてやるべきだったかと彼は後悔した。
簡易的に机の上にあるビーカーやフラスコでコーヒーでも作ってやろうかと考えたが、
少女が息を吸い話を再開したので彼は意味もなくビーカーを握った。
「本当は、そういった事件でも精霊使いは動いてるって思ってたし、
だから実は暗躍してるんですよとか、秘密だって言われるにしても
答えを匂わすような感じで教えてくれるって……思ってたんだけど」
「違ったのか」
計算が難しい化学式を見た時の研究生のように眉を潜め、少女は目を伏せた。
いつの間にか、少女は閉じた膝の上で両手を祈るように重ねて握り締め。
「戦争が起きても世界は滅びませんからって、言われたの」
「……なるほどな」
世界を救った一員であるとは言え少女はまだ幼く、文字通り箱入り娘だ。
困っている人がいたら助けましょう、というお手本通りのモラルを持つ者にとっては
その弥生の言葉は価値観の相違という一言では言い表せない違和感を覚えたのだろう。
ただ相槌を打っただけのビクトルに対し、少女は話を続けた。
「えっとね、弥生さんや……ヒューイを悪く言うつもりもないし言ってるつもりもないの。
でも、なんだろ、時々ね、真面目な話をしている時に隔たりを感じたりするの。
人を助けなきゃ!って時とか、すごく二人とも冷静で……
冷たいってわけじゃなくて、なんだかすごく遠い場所にいるような気がして。
……ごめん、結局悪く言ってる気がする」
「悪口ではなく思った事を言っているだけじゃろ。
それにそう言われた程度であの二人がお主を嫌ったりするとは思えん」
「うん……ありがと」
素直に感謝を述べられ、柄にもなく照れた彼は
ビーカーを持っていない方の手を顎に当てて羞恥を隠すと、
重ねて柄にもなく優しい口調で語り掛ける。
「これはあくまでワシの想像じゃ。
精霊使いと言うものを客観的に考えた
少しマッドサイエンティストの年寄りが考えた戯言じゃ。
参考にはしていいが、鵜呑みにはするな」
コツコツと節張った人差し指の腹でビーカーを軽く叩きながら、彼は少女を見つめた。
「おそらく、精霊使いというのは善人の集まりではない。シオンという前例もあるしな。
言い方は悪いが『世界』を救う、ないしは『世界』を維持するのが役割じゃろ。
彼らが護るのは『世界』であって『人』ではないじゃろうよ」
「それは……一緒のものじゃないの?」
「弥生が言ったのだろう?戦争が起きても世界は滅びません、と。
人と人が何かを起こして人が死のうと世界には関係ない。
人が『世界』に対して何かを行った場合は、
それで結果的に人が死のうと死ぬまいと精霊使いの出番なんじゃろ。
身も蓋も無い言い方をすれば、人類が絶滅しようと、この『世界』は継続するわけじゃしな」
「なに、それ……」
人あっての世界か、世界というものが存在するからこその世界か。
それを知覚できる自分自身が存在しないのだから、中々後者を理解するのは難しいだろうと彼は思った。
彼自身、家族を失ってこの世に対する執着が一般人より希薄だから今の言葉が言えたのかもしれない。
「全て鵜呑みにするな、と言うたじゃろ。あくまでワシの想像じゃ」
「だって、そんなのおかしいじゃない。
極論で言えば、人間は死んでも世界が続いていれば問題無しって事でしょ?」
「……だったら、簡単なテストをするか。有名な倫理の問題じゃ。
お主は少し離れた場所で暴走するトロッコの操作をしておる。
ブレーキは壊れて止め様が無い。レールの先には5人の作業員がおり、逃げている時間はない。
このままだと間違いなくトロッコに轢かれて5人は死ぬ。
しかし途中にレールの分岐があるので分岐を切り替えればトロッコは違う道に進む事ができる。
お主ならどうする。レバーを操作するか?」
「もちろん。だってそうしないと5人が死んじゃうわけでしょ?」
「そうじゃな。だが、そのレールの先にも1人作業員がいるのが見えていた場合はどうじゃ。
レバーを操作するか」
「……っ」
「レバーを操作せず5人を轢くか、レバーを操作して1人を轢くか」
少女は小さく、操作する、と呟いた。
ただのテストだというのに、本当に悲しそうに、罪悪感を吐き出すように。
ああ、きっとこの子は精霊使いには向いていないな。
彼は、少女がその様な力を持たずにいる事に心から安堵した。
いや、もしかすると、この様な真っ当なモラルを持っているからこそ
精霊使いの力を与えられなかったのではないか。
そんな一つの仮定が頭に浮かび、長考しそうになったが
まだ続いている問題を少女に問うのが先だと咳払いをして脳のモードを切り替える。
「ならば少し前提を変えるかの。
さっきと同様に、暴走トロッコのレール上に5人がいる。
しかし今回は操作しているお主の隣にも誰か、太った人がおる。
暴走トロッコと5人の間に細い橋があるため、その太った人を
橋に突き落としてしまえば橋が壊れ、5人を救う事ができる。
もちろん、突き落とした太った人は死ぬがな。
仮にすでに太った人を突き落としたとして、それは許される事かの?」
「そんなの、ダメに決まってるじゃない!」
「なぜじゃ?」
「だって、結局人を殺して」
「最初の問題も同じじゃろ?5人を助けて1人を殺すか、1人を助けて5人を殺すか。
結果は同じで、条件の違いがあるだけじゃ。
一問目がよくて二問目がダメな理由を説明できるか?」
「……出来ない、けど、でも、モラル的に考えて」
「その、お主が考えているモラルの基準と、精霊使いのモラルの基準は違うんじゃろ。
モラルだけに限らず、価値観が全人類一致しているわけではない」
「だからって……」
「まぁこれは倫理問題じゃから基準となるモラルが『人の命』についてじゃが……
精霊使いの基準が『世界』ならば、5人でも5万人だろうと、人を殺す方でも選べるんじゃろ」
シオンから頼まれビクトル自身が魂の壷を造り、
そうして、シオンが最後にこの争いの大義名分を叫んだ事も二人はよく覚えていた。
5万の魂は世界を安定させ完全にするための些細な犠牲だと、あの哀れな青年は叫んでいた事を。
それもおそらく、心の底から。
「……精霊使いって、なんなのよ……」
「だから、鵜呑みにするなと言っておるじゃろ。
精霊使いに限らず、人間の考え方の基準なんて一致しているわけがない。
ある意味精霊使いの【適正】か……もしくはそういう風にならざるを得ないのか」
「洗脳って事?」
「似たようなものじゃが、洗脳と言うよりもある種、教育かもしれんな。
子供は親を見て学ぶじゃろ。それと一緒じゃ。そうじゃな、また問題じゃ。
15個のグラスを割った子供と、1個のグラスを割った子供、どちらが悪いか」
「……どうせ捻くれた問題なんでしょ」
「お主が捻くれたな」
少女の様子を見て彼は思わず好々爺のように笑った。
「まぁ、それぞれ事情がある。
15個のグラスを割った子は、親にご飯を取りに来るように言われ、
ドアを開けるとドアの近くにあったイスにドアを当ててしまった。
すると、母親はたまたまそのイスの上にグラスを置いていたため落ちて割れてしまった。
1個のグラスを割った子は、親に留守番をするように言われたが
棚の奥に隠すようにしまわれていたジャムを見つけた。
それをこっそり食べようと棚の奥に手を伸ばしたが、
その際に腕が引っかかりグラスを1個落として割ってしまった。
さぁ、どちらの方が悪いかの?」
「1個のグラスを割った子、でしょ。悪い事をしようとして割ったんだから。
15個のグラスを割った子は親の手伝いをしようとして、偶然割れただけだし」
ビーカーを握っているビクトルを真似てか、アネットも試験管に手を伸ばし側面に指を滑らせた。
しっかりと木製の試験管立てに立てかけられているため倒れる事も落ちる事も無いそれを
不注意でも割らないようにか、非常にゆっくりとした動きだった。
「……まだ幼い子供達にこの質問をするとな、
事情を話した後でも15個のグラスを割った子の方が悪い、と答える」
「どうして?悪い事と良い事の区別が付かないって事?」
「いや、子供とは言え区別はついておる。
しかし15個のグラスを割った方が悪いと答えるのは
実際に大人の前で1個のグラスを割った時と15個のグラスを割った時
15個のグラスを割ったときの方が大人が酷く叱ると身にしみて分かっているから、らしい。
年齢が上がるにしたがって1個の方が悪いと理解しても
子供の頃は『どちらの方がどれぐらい酷く叱られるか』を……
つまり、どちらの方がより自分にとって嫌なものかをよく見ている。
感受性も豊かじゃしな。何よりも子供は白紙の状態じゃ。
周りの影響で何色にでもなる。
成長するにつれて一般的な『人』を基準にしたモラルの色を塗られるのが当然なら
元から『世界』を基準にした【精霊使いの適正】を持った子供が
【精霊使いの適正】を持った大人たちに連れられ育てられたら
『世界』を基準にしたモラルの色を塗りたくられて当然なんじゃないか?」
「ヒューイと弥生さんが、そうだと……?」
「ワシはあの二人がいくつから精霊使いをしておるのか知らん。
今語ったのは有名な倫理問題から導いた勝手な想像じゃと言っておるじゃろ」
「……きつくないのかな」
少女は細い試験管の底を、暖めるかのようにして握り締めて呟いた。
「精霊使いの適正を持った人が、精霊使いの適正を持った人に育てられ、その適正を持ち続ける。
それが出来る人が精霊使いを続けられるんじゃろ。
もしくは逃れようと思っても逃れられないのか……
もがいた結果が、シオンなのかもしれんな」
彼は朝方の、トランスポーターに消えた弥生の無表情な横顔を思い出し。
彼も、そして少女も。
今、目の前の机に並んでいるビーカーや試験管を、意味も無く割り暴れたい衝動に駆られていた。
ビクトルが最初に話している問題はトロッコ問題。
タイトルとモチーフはスイスの心理学者で思考発達段階説を説いたジャン・ピアジェの「割れたコップの話」から。